音楽アーティストの情報をより深く知る方法

好きな音楽アーティストの情報をより深く知るには、情報源を広げると良いでしょう。例えば、音楽雑誌はアーティストのインタビューや特集がよく組まれているので、好きなアーティストの情報を得るのに良い情報源になってくれます。特定のアーティストの特集本が作られる事もあるので、詳しい情報を知りたい方にとっては見逃せない情報源です。この他にも、意外な所で情報発信が行われる事もあるので情報源はできるだけ広くしておきましょう。

例えば、同じ音楽雑誌でも専門誌を探す方法があります。例えば、ギターの専門誌にお気に入りの音楽アーティストが掲載されていたら、アーティストについてよく知るチャンスです。例えば、ギタリストやベーシスト場合は使用しているギターやベース、採用しているエフェクター等の機材に至るまで詳細な情報が掲載されます。アーティストの愛用品について深くしる事ができますし、自分でコピーバンドを作る際等に、音作りの参考になるでしょう。

インターネットを利用して掲載情報を知るのも、良い情報収集になります。最近、ファンになった音楽アーティストが過去に発信した情報もチェックできるので、音楽雑誌のバックナンバーを購入する際等に役立つでしょう。雑誌自体が販売されていない場合は、古書店を当たるにも役立ちます。書籍を電子図書や紙媒体で入手しやすい方法でもあるので、情報源の1として活用すると便利です。

また、インターネットには音楽アーティストのファンたちが集うコミュニティもあるので、他の方との情報交換の場にできます。アーティストについてまとめられた情報を閲覧すれば、ファンになっているアーティストについてより深く知る事ができるでしょう。逸話の多いアーティストの場合は、様々な情報源で雑多な情報が発信されています。コミュニティには一か所に情報が集中していますし、テレビ等のメディアではあまり語られない意外な一面等を知る機会にもなるので、チェックは有益です。

若いファンが増え続けている音楽アーティスト

音楽というのはその年齢にあったものを聴くというのが基本であり、そのままその音楽アーティストと共に年齢を重ねていくイメージが強いでしょう。中には親子で好まれている音楽アーティストもいますが、現実にはそこまで多くありません。特に、40代の親と10代の子供が同じものを好んでファンになるというのは簡単ではないのです。それはアーティスト自体が年齢を重ねることで、歌える歌の幅が変わってきたり、歌詞の内容が若い世代には受け入れなくなってしまうからと言われています。


しかし、ここ昨今、若いファンが増え続けている音楽アーティストが存在しています。それは、BUMP OF CHICKEN。日本の4人組ロックバンドで、メンバー全員が1979年生まれの幼馴染で結成されています。メジャーデビュー後、セカンドシングルでもあった『天体観測』がドラマ主題歌に抜擢され、一気に注目を集めたバンドでもあります。天体観測は現在もカラオケなどで歌われる歌として有名です。

次々とシングルやアルバムを出し、一気に名前が売れたバンドではあるものの、テレビなどのメディアの出演はせずに製作活動とライブ活動をメインに行ってきました。映画主題歌やアニメ主題歌、昨今ではボーカロイドともコラボレーションするなど幅広い活動を行っています。さらに、2015年には紅白歌合戦に初出演したりとメディア出演も果たしました。また、2016年は結成20周年として幕張メッセでのライブを行っています。

デビューから躍進をし続けたBUMP PF CHICKENは、テレビCM曲などにも起用されることが増え、若い世代にとっても馴染みのある楽曲を提供し続けています。藤原基央が描く世界観に共感する若者が増え、10代のファンもいるというのですから驚きです。彼らは現在38歳ですから、若い人から見ればおじさんバンドなはずなのですが、少年の心を忘れない歌詞に共感する10代が増えているようです。

アメリカの音楽アーティスト Trini Lopezについて

音楽アーティストのTrini Lopezは1937年5月15日生まれのアメリカの歌手兼ギタリスト、かつ俳優です。

1960年代に Pete Seegerの持ち歌であった天使のハンマーを歌い、La Bambaやレモン・ツリーとか待っててシンディなど次々とヒット曲を連発し一躍有名歌手となりました。活動期間は1963年からで現在80歳で動画では健在で新しいアルバムの予告も行っているようです。

最初の天使のハンマーの入った1963年のデビューアルバムはゴールデン・ディスクも獲得しています。父親はメキシコ人で生まれたのはテキサス州のダラス、4人の姉妹と歌手でもある弟がいますが4人姉妹のうちの2人は死亡しています。

15歳のときにバンドを結成しレコード会社とも契約を結び、ソロとしてのレコーディングも行っています。

人気に従って1964年から1971年までにギター会社のデザインも行っていて生産もされています。13のチャートシングルを記録しトップ10シングルを含む15のアダルト・コンテンポラリー・チャートを記録しています。そのころはナイト・クラブへもトップパフォーマーとして出演し、定期的にラスベガスへ出演を行っていました。

編曲者でプロデューサーのドン・コスタによってLAのナイトクラブで歌っていたところを見つけられたとされています。

レパートリーはPete Seegerの曲からスタンダードナンバーまで幅広くこなし、世界的な音楽アーティストとしても認められているようです。

1966年に出されたTriniアルバムは比較的に良く知られたアルバムと思われ5月32日とか Trini's Tune、 Fly Me To The Moon、Call Meといった曲が収められています。動画共有サイトではその当時のperformanceも見られます。

1960年代から1970年代にかけては映画の分野にも進出するようになり、この期間にヨーロッパやラテンアメリカへツアーも行っています。2003年には国際ラテン音楽の殿堂入りを果たし、慈善活動も行っています。

これまでにアルバムも多く出され2011年においては65枚目のものが出されています。

音楽アーティスト世良公則の軌跡と人気の秘密

日本のロックを語る上で、忘れてはならないのが稀代のロック・ボーカリスト世良公則です。1977年、大学の友人たちと組んだロックバンド、世良公則&ツイストで、ヤマハポピュラーミュージックコンテストと世界歌謡祭に出場すると「あんたのバラード」が見事にグランプリを獲得します。その後、プロ志向のメンバーへの交代を経て、メジャーデビューを果たすと出す曲が全てヒットを記録し、わずか1年足らずで日本の音楽会の頂点に君臨することになります。

もちろん、ツイストのメンバー一人ひとりが優れた音楽アーティストであったことに違いはありませんが、何と言っても世良公則のワイルドな歌唱法と、マイクスタンドを使った派手なアクションが強烈すぎるインパクトが、お茶の間レベルにまで浸透したことが、彼らをトップスターへと導いたのです。

「あんたのバラード」に始まり「宿無し」「銃爪」「性」など、日本歌謡界に歌い継がれる永遠の名曲を発表し続けていくのです。また、世良公則は俳優としても「太陽にほえろ!」に1984年から2年間にわたりレギュラー出演を果たします。

それまで、アイドルではない男性ボーカリストの代表格は、沢田研二ただ一人という状況で、世良公則の出現は新たな幕開けを感じさせるには、十分すぎる出来事だったのです。世良公則の出現と前後して、原田真二やチャー、甲斐バンドなどのロック・アーティスト達がヒット曲を連発しますが、世良公則の活躍がなければ、これほどまでにシーンが盛り上がることはなかったかもしれません。

そんな世良公則もデビュー40周年を迎え、ますますロック・ボーカリストとして円熟味が増してきました。世良公則の魅力は、その歌唱法と派手なアクションになりますが、ただ単に叫ぶのでなく、聴かせるところとシャウトするところを使い分け、その楽曲が持つパワーを最大限に活かす唱法へと進化しています。60歳を超えても、なおセクシーな音楽アーティスト世良公則に要注目です。

音楽アーティストB'Z稲葉浩志の魅力とは

稲葉浩志といえば、ギタリストである松本孝弘と結成したB'zのボーカリストとして1988年にデビューし、幾多のヒットチューンを世に送り出しています。その活動は2018年には、いよいよ30周年を迎えます。その間、それぞれのソロ活動を行いながらも、絶えず日本の音楽シーンをけん引してきたことは、まさに奇跡的なことです。

音楽アーティストとして、稲葉浩志の功績は誰もが認めるところですが、その出発点は、大学生時代に音楽雑誌『ロッキンf』に掲載されていた、音楽制作会社ビーイングが主催する「ビーイング音楽振興会(現・Being Music School)」のスクール生募集に応募したことから始まります。

その当時、ビーイングには、世界進出を視野に活動していたLOUDNESSなど、日本のトップバンドが在籍していたことでも知られています。稲葉浩志LOUDNESSのファンであることは、インタビューでも話しており、そのことでビーイングに心が動かされたのは間違いありません。

このことがきっかけで、稲葉浩志ビーイングに所属し、バンドでのデビュープロジェクトも始動していましたが、正式にバンドとして活動することもなかったため自然消滅してしまいます。稲葉浩志は、並行してメジャー・レーベルのオーディションを受験していますが、こちらも不合格となっており、稲葉浩志のデビューは暗礁に乗りかかっていましたが、丁度、自らのプロジェクトに参加させるボーカリストを探していた松本孝弘が、稲葉浩志のデモテープを聴いてB'zが結成されることになったのです。

稲葉浩志の素晴らしいのは、その歌詞にあります。日本語詞ではあまり使わないような、日常生活の中で使用する話し言葉を積極的に取り入れており、独特の世界観とリズムを醸し出しているのです。また、年齢を重ねても衰えなハイトーン・ボイスは、誰にでも真似ができるものではありません。これからも音楽アーティストとして、稲葉浩志には様々な楽曲を聞かせてほしいものです。

音楽アーティスト山下達郎の魅力とこだわりとは

山下達郎が、ここ数年、精力的なライブ活動を続けていますが、還暦を超えた現在でも、オリジナルのキーのまま歌っていることが注目されています。何気ない話のようですが、人間は年齢とともに、声のトーンが低くなる傾向にあり、多くの音楽アーティストが、年齢とともにキーを下げて唄っているのです。特に山下達郎は、オリジナルのキーにこだわりを持っており、もし、唄えないのであれば、ステージでは演奏しないと公言しています。こうしたこだわりが、山下達郎の音楽アーティストとしての本質であり、多くの音楽ファンを魅了する要因なのです。

さて、山下達郎の音楽アーティストとしての出発点は、大貫妙子らと大学時代に結成したシュガー.ベイブになります。1975年に「SONGS」というアルバムでデビューしています。シュガー・ベイブのこうせきqは、歌謡曲的なアプローチが一切なく、オールディーズを代表とするポップス、ロックを忠実に継承している点で、和製ポップスの礎を築いた点です。

シュガー・ベイブ解散後、いよいよ山下達郎はソロ活動を始めますが、最初から順風満帆であったわけでなく、いつレーベルから契約を解除されてもおかしくない状況だったそうです。状況が好転するのが、1979年に発表したシングル「LET'S DANCE BABY」のB面「BOMBER」が大阪のディスコでかかり始め、スマッシュヒットを記録したあたりです。さらには、1980年に発表した「RIDE ON TIME」は、maxellのCMにも使用され、いよいよ山下達郎の楽曲が広く認められるようになり、1983年に名曲「クリスマス・イブ」が発表されるのです。

山下達郎の魅力は、何と言っても、透明感のある声であり、ハイセンスな和製ポップスに非常にマッチしている点です。また、その声を活かすために、各楽曲には非常に綿密なアレンジが施されています。つまり、どの要素が欠けても、その楽曲は成り立たないのです。近年、アルバムの発表するサイクルが長くなっていますが、山下達郎にはこれからも、良質な和製ポップ・アルバムを発表し続けて欲しいものです。

音楽アーティスト、カーペンターズの名曲

音楽アーティストのカーペンターズは、アメリカの兄妹ポップス・デュオです。ロック全盛の1970年代、独自の音楽スタイルで、一時代を築き、数々の心に残る名曲を世に送りました。妹・カレン・カーペンターの穏やかな美声は多くのファンの心を癒し、今でも愛され続ける音楽アーティストです。アルバム・シングルの総売上枚数、1億枚以上と言われています。
オリコンチャートでは、1970~1989年の日本で、海外アーティストのアルバム売上枚数はビートルズに次ぐ第2位の人気を誇ります。

代表曲の「イエスタデイ・ワンス・モア(1973年)」は、母国・アメリカでは2位を、日本とイギリスでは、カーペンターズ最大のヒット曲で、日本では100万枚以上、オリコン洋楽チャートでは26週連続1位を記録しました。

「トップ・オブ・ザ・ワールド(1972年)」は、1995年のテレビドラマ『未成年』の主題歌にも採用されました。また、岩崎宏美森口博子倉木麻衣持田香織など多くの日本人歌手によってもカバーされています。

「プリーズ・ミスター・ポストマン(1961年)」は、ビートルズを聴いて育ったカーペンターズが、1974年にこの曲をカバーし、3作目の全米1位のシングルになりました。2015年・ホンダ「ステップワゴン」CMにも起用された曲です。

他にも「クロス・トゥ・ユー」「スーパースター」「遥かなる影」「雨の日と月曜日は」「ア・ソング・フォー・ユー」「愛にさよならを」「シング」「オンリーイエスタデイ」「愛のプレリュード」などヒット曲は多く、1970年代に、グラミー賞に何度もノミネートされ、3度受賞し、2曲が殿堂入りになっています。

音楽ダウンロード・サービス『mora』では、2017年上半期ランキングの、ハイレゾアルバム(まとめ買い)部門で、 Carpenters『シングルズ 1969-1981』が9位にランキングされるなど、45年以上経った今なお根強い人気を誇ります。